豊中競輪場(大阪府)
1950(昭25)年〜1955(昭30)年

大阪府営服部緑地は「日本の都市公園100選」にも選ばれている
甲子園球場の約33倍の広さで大阪府を代表する都市公園である

大阪府が竹林、溜池を買収して造園した


第二次世界大戦が終了し戦災復興資金の確保のため
1948(昭23)年11月:
小倉競輪場で世界でも類のない自転車競走「競輪」が始まった

各地にその加熱ぶりが伝わり、大阪府もその人気に加算
大阪で一番初めに競輪を開催したのは
住の江競輪(現:住之江球場付近)
次は
岸和田競輪(現存)、中央競輪(現:長居競技場付近)そして豊中競輪
次々と競輪場が竣工された


1950(昭25)年:収容人数3万人の
府営豊中競輪場が完成
大阪府や、豊中市周辺の都市が主催者となり開催が繰り広げられた


しかし、その年に発生した
鳴尾事件(鳴尾競輪場:後の甲子園競輪場での暴動)や
1954年に
後楽園競輪場で発生した騒乱事件により
当時通産大臣だった石橋湛山は、
競馬の平日開催中止に同調する形で
競輪やオートレースについても
平日開催の自粛方針を明らかにした



これを機に、かつてより公営ギャンブル開催に反対していた当時の大阪府知事の赤間文三は
1956年度以降の
大阪府営競輪・競馬の開催中止を発表した

一方、競輪の売り上げが重要な財源であった大阪府下の各都市は
開催中止は死活問題である反面、府の開催分を各市が分担開催することが可能であれば
却って収益が向上するとの期待もあり

府営開催は中止するが
府の所有する競輪場施設の提供中止は行わない
ただし
豊中競輪場を廃止してリクリエーション施設へ改装する
その様な方向にて決定し
1955(昭30)年:
豊中競輪場だけは閉鎖、他場の運営は残された


現在は北大阪地域のスポーツ・レクリエーションの拠点で多くの府民の憩いの場となっている



大阪府豊中市服部緑地